平和の道を歩むために
チア・シード
イザヤ2:1-5
預言者イザヤの召命の記事は、6章に記されています。預言の書は時間順に述べているわけではないにしても、この構成は少し気になります。つまり、召命を語る以前に、そもそもイザヤという預言者が生涯で何を語ったのか、その全体像をまず見せているように思われるからです。ここで掲げられたのは、平和の宣言でした。
裁きを超えて終わりの日に、イスラエルが主の救いの光の中を歩み始めることへの導きと、祝福です。特にいまはエルサレムについて、その神殿礼拝について述べています。この「終わりの日」は、イザヤにとっては、バビロン捕囚の後にそこから解放されることを伝えているのかもしれません。歴史的にイザヤの預言は、それを確かに告げています。
けれども、私たちキリストを知る者は、究極的な救いの実現の日を望みつつ、この言葉を味わってもよいのではないでしょうか。全世界から人が集まります。さあ、ここに神殿があります。破壊されたエルサレム神殿ではありません。神の都エルサレムは、装いも新たに神の手により築かれました。永遠の都であり、完全な救いと平和がもたらされました。
どの峰よりも高く聳え、そこから主の言葉が流れ出ます。教えはシオンから、世界の国々を従え支配する神の言葉が投げかけられます。国々は変化します。槍は鎌へ、剣は鋤へと打ち直されます。闘うことは、もう必要がなくなるのです。主が力を以てその国を治めます。主の言葉が、人の心をも全地をも、すべてを支配する世界を実現します。
人は戦いについて、もう考えることがなくなる、というのです。さあ、全国民は知れ。主の山を登ればよいのだ。そこにのみ、道はあるのです。示された道を、私たちはただ歩めばよいとされています。自分で自分を救う必要はありません。何を準備するという必要もありません。主の光に照らされた道を、共に歌いながら、ただ上って行けばよいのです。