祝宴の幻
チア・シード
イザヤ25:6-8
預言は神の言葉を預かることです。予言ではありません。悠久の歴史を過去から未来にわたり神の思いを知らされた者が、人々に告げるのです。そのときすべてを時系列で順序よく綴っていくわけにはゆかないでしょう。イザヤ書とて、様々に見せられる幻を、イザヤが気の着くままに書いているという具合であると思われます。
イスラエルの救いの成就、その日の有様を預言書の中盤で述べているのも、奇妙なことと見なす必要はありません。万軍の主という力ある名の下で、民のための祝宴が催されることが描かれています。脂の肉と熟したぶどう(新共同訳は酒)という祝膳です。血の滴ることのない、イスラエルの肉は脂が最高の調味料であったのではないかと推測します。
招かれた民の顔を覆っていた布が取り払われます。ギリシア語の思想であれば、多いが取り払われるということは、隠されていたものが露わになる「真理」概念のことでありましょうが、イスラエルでも、象徴的な効果はきっとあると思われます。このとき死は永久に滅ぼされ、主なる神が呑み込むというような書き方がなされています。
主を慕う者の涙は拭われます。ということは、それまで民は涙していたことになります。国を失い、捕らえられて不遇な扱いを受けてきました。辛酸を舐めさせられた悲しみです。イザヤの思う歴史はそうでしょうが、私たち一人ひとりにとっては、それぞれの人生の涙があり、今置かれている所での辛い思いが重ねられることでしょう。
たまらない恥を負っている人もいるでしょうし、それを甘受するゆとりもなく厳しい仕打ちに苦しむ中にあって、茫然としている人もいるでしょう。だが、その恥もすべてこの地上から消えることを告げます。イザヤは明確に、主がそのようなものを消してくださると宣言します。苦しさの極致は永遠の死。その死を神は解決してくれるのでしょうか。
そうです。死を永久に滅ぼします。いわば、死が死ぬのです。この一コマを記すことで、イザヤは心を強くするように励ましてくれます。私たちに希望がもたらされます。主の山における祝宴の幻が迫ってくるでしょうか。私たちは信仰の目でそれを見ることが許されています。未来を先取りし、この情景を希望として胸に抱くのです。