自由の逆説

チア・シード

ホセア11:1-4   


エジプトから民を呼び出した、しかも幼かったイスラエルを。マタイによる福音書が、クリスマス後の出来事としてこれをうまく引用したことで、よく知られるようになった預言です。けれども、ホセアのイスラエルは、心が主から離れていきます。主がその名を呼んでも、イスラエルは去っていきます。偶像に心を捧げてしまうのです。
 
主が育んだのではなかったのか。もうそのことを忘れてしまったというのか。人間は、代々子孫へと生まれ変わっていく故に、一人ひとりは気づかないままに、偶像を受け継いで成長していきます。この民を生み、痛みあらば癒やし、支え生かしてきたことに気づくことがなかったのです。自分が受けたものについては、なんと鈍感なことでしょう。
 
ホセアにしてみれば、エジプト脱出の歴史を描いているに過ぎません。イスラエルの歴史は、出エジプトから、という意識だったのでしょうか。つまりは、モーセなのです。イスラエルはモーセに基礎を置いています。するとアブラハムとは何だったのでしょう。アダムとは。こちらへは、パウロがシフトしているようにも見えます。
 
しかし預言者にとり、エジプトから導いた主なる神と、その主ではない土着の神々に惹かれていった民の歴史が、大きな意味をもつものとなりました。バアルに生け贄を献げ、偶像に香を焚いたのです。私たちが、何に対して、持てるものを献げているのかが問われます。他方、ホセアの語る主は、ずっと導いています。今もなお、民を育んでいます。
 
絆とは、切ろうとしても切れない、逃れられない綱のことです。他方この綱は、不都合な束縛を取り払うものだといいます。逆説です。絆なのに、自由を与えます。主に縛られるかのように見えることが、却って自由そのものとなるというのです。まだ幼かったイスラエルを、主は愛しました。神の愛の真実をまた改めて覚える時としたいと願います。


Takapan
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