モーセの大きさ
チア・シード
ヘブライ11:23-31
次はモーセです。イスラエル民族にとり、アブラハムは信仰の父ではありますが、少し遠い存在です。モーセは、政治的な原点とも見られ、民族的意義を強く覚える存在だと言えないでしょうか。モーセは出エジプトを果たしてからの苦労が半端ないのでした。人々をどう取り扱ったか、そこには常に難がつきまといました。
でもその旅のことにはここでは言及されず、出エジプトまでの人生だけが挙げられています。そこまでが信仰の事柄だと言うかのようです。つまり、荒野の旅という、どうかすると神の与えた罰、少なくとも試練と言えるものは、「信仰で」との列伝には相応しくなかったのかもしれません。民族は、あの忌まわしいエジプトさえ脱出すればよかったのです。
目的のカナンの地、訳その土地へ、信仰により向かい、入っていくことには触れますが、そこにヨシュアの名がないことが気になります。戦術に長け、かつてモーセの従者として仕えた民族のヒーローとなって然るべきヨシュアについては、信仰者として名を記されることがありません。エリコを陥落させた立役者であったはずなのに。
ここにある「信仰で」の主体は誰なのでしょう。人々ということでしょうか。でもこの事件の主役に挙げられた名は、遊女ラハブです。これはマタイによる福音書の冒頭にその名が記された女性ですが、ここには遊女とわざわざ書かれています。福音書の記述を踏まえたものとして、ここに取り上げられているという可能性もあるでしょうか。
ラハブの行為は確かに信仰によると言えるように見えます。敵軍が救うという約束を信じていたのですから。それにしても、指導者ヨシュアの名、その名は後にイエスと発音されるようになったであろうその名は出されることなく、ラハブがちゃんと登場する、それはイエスの家系にあるからという理由が関係しているのかもしれません。
けれどもこれら信仰者の列伝には、イエスの家系ではアブラハムとダビデくらいしか登場しません。モーセについてはかなり詳しく記されています。「信仰によって」と記者が言葉に出す回数は、アブラハムと同数、モーセにも付せられていることが観察されます。私たちは改めて、モーセの大きさを知る思いがします。