弟の方を祝福する
チア・シード
創世記48:8-16
「年を取り、目がかすんで見えなくなってきた」(27:1)イサクは、リベカの策略により、弟ヤコブを兄エサウだと騙されて祝福しました。「一つの祝福しかないのですか」(27:38)と泣いて父に迫ったエサウも、もうどうしようもありませんでした。そのヤコブもまた、年老いて寿命が尽きようとしています。いよいよ祝福を与える場面となりました。
ヤコブは数奇な運命の下、エジプトのゴシェンの地に住んで生涯を終えようとしていましたが、その病の床で初めて、ヨセフの2人の子を見ます。孫に、それまで会っていなかったというのは不思議です。ヤコブから十二部族が出ます。そのヨセフの2人の息子も、部族の名としようと言います。2人を、ヨセフの息子として扱おうとするのです。
一種の養子ですが、ヤコブを改名してイスラエルと呼ばれるからには、ここでヨセフから生まれた2人も、イスラエルの部族の名をもつ者となるのです。マナセとエフライム。その「目は老齢のためかすんでよく見えなかった」けれども、ヤコブはイサクのように騙されることなく、我が道を貫きました。ヤコブの意志は、ヨセフとは違いました。
ヨセフは、長男のマナセを、ヤコブの右手の祝福を受ける位置に置きました。しかし、ヤコブは自分の手を交差させて、弟のエフライムの方に祝福の右手を載せたのです。ヨセフは、手が間違っていますよと父の手を掴んで改めさせようとしたのですが、ヤコブは、いやそれでよい、と曲げませんでした。マナセとエフライムはその後二つの部族になります。
祝福されたエフライムは豊かな実りをもたらす、非常に見映えのする地となりました。ヤコブの祝福は確かに効いたのです。ヤコブは祝福される側としても祝福する側としても、常識を覆したのです。あるいは弟という自分の立場の優位を貫き通したのです。聖書の訴える一つの柱です。価値観の逆転、人の味方と神の見方の相違を感じさせます。