ヨセフは狂言廻しか
チア・シード
創世記39:1-6
ポティファルは「ヨセフを連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取った」と始まります。37章で謎だった、ポティファルにヨセフを引き渡したのはイシュマエル人なのかミデヤン人なのか、という点は、どうやらイシュマエル人というのが正解のようです。ミデヤン人が、という記述は何かの間違いだった、と理解した方がよさそうです。
ポティファルは王の親衛隊長でした。良い家柄の許に住まうことは、ヨセフにとり恵まれたことでした。この後数奇な運命に操られますが、それがあてこそエジプトの宰相となるに至ったわけで、人間万事塞翁が馬というわけです。「主がヨセフと共におられた」ことで「事は順調に運び」「主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された」のでした。
キリスト者は励みを与えられます。自分がそこにいることで、周囲が祝福されるというのです。災いの種ではありません。不本意な処遇に感じられても、主は、そこに自分がいることで良き影響をもたらすと言われるのです。よく見ると、この大きな転換点の描写で、ヨセフが主体となって何かを意志し行動した、とはここには書かれていません。
ヨセフは連れて来られ、買い取られました。主語にはなっていますが、「エジプト人の主人の家にいることになった」だけです。主人に気に入られたことで、やはり主語ではありますが、「仕えるようになった」と書かれています。ヨセフの意志で何かをしたとは、一言も書かれていません。それでいて、財産をすべて任せられるほどに信用されました。
最後に「顔も美しく、体つきも優れていた」と容姿が描かれますが、これは、次のポティファルの妻の目線のためのものです。ヨセフは別段何をもしていません。もちろん、信頼されるだけの仕事はしたはずです。でもそれは、ただ業務として遂行しただけのことです。自ら画策したり、意志や意欲を以て選択して行動したりしたわけではないのです。
さらに言えば、そもそもヨセフは主なる神を信じていたのかどうか、私にはよく分かりません。創世記の記述では、それが描かれてはいないのです。主に祈り求めた姿はないし、主から呼びかけられた形跡もありません。本人の信仰が働いたというふうではなしに、神の選びにより事が起こります。イスラエルの運命が動いてゆくことになります。