人生を変える声

チア・シード

創世記22:9-18   


アブラハムを神が試みます。呼びかけたのは神です。アブラハムは、寡黙にそれに従いました。モリヤの地で、一つの山を示されたということで、そこに着くと、アブラハムは祭壇を築きました。淡々と作業を続けたかのように、創世記は描いています。独り子イサクを縛るとき、この親子がどういうあり方をしていたのか、想像はもはやできません。
 
アブラハムは本気でした。そうとしか考えられません。正気の沙汰ではありません。そもそも信仰というものが、まともな精神状態ではないのだ、と言われることもありますが、なるほどそうかもしれません。手を伸ばして刃物を握ります。息子を、神の仰せのままにいま屠ろうとしました。その瞬間、天から呼びかける声がありました。主の使いです。
 
「アブラハム、アブラハム」と2回です。非常に重要な呼びかけ方だと思います。ふと私は気づきます。アブラハムを試みたのは神でしたが、蛮行を止めたのは、主の使いだったのです。神ご自身が登場しているわけではないのです。それどころか、この後アブラハムの生きている間、神も主の使いも、もう二度とアブラハムの前には現れませんでした。
 
アブラハムにとっては、限りなく大きな事件だったのですが、ここからは神が殊更に何かを示し導くということがなくなります。すべてアブラハムが考えた通り、決めた通りに殊が運ぶのです。しかし、神は確かにアブラハムを祝福しています(24:1)。恰も、アブラハムは信仰において免許皆伝となったかのようにも見えるわけです。
 
雄羊を見出したのは、アブラハムが目を上げたときでした。注意喚起の語として「見よ」と訳す語がありますが、アブラハムの目は確かに上がり、それを目に留めました。ここに、狂気の沈黙から、光の希望へと転換があったのだとすれば、私たちの信仰の試練も、きっと主の使いの声によって超えられるのだと信じます。私の意志や努力によってではなく。


Takapan
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