いまやまるでアブラムのように
チア・シード
創世記17:1-8
すでにアブラムについては、12章からその歩みを創世記は記録しています。「あなたの子孫はこの地を与える」(15:18)という神の言葉をアブラムが受けたのは、まだ実子が与えられていないときでした。これもひとつの契約でした。神の約束でした。そしていま、アブラムは99歳、改めて現れた主は、決定的な「契約」をアブラムと結びました。
主は「私は全能の神である」との宣言の中から現れます。「私の前に歩み、全き者でありなさい」というのが契約の条件でした。不思議なことに、私たちはアブラムではないのに、このアブラムの身になってここを読んでしまいます。「あなたは多くの国民の父となる」ということは、当然私のことではありません。だのに自分が言われたつもりになります。
「私はあなたと、あなたに続く子孫との間に契約を立て、それを代々にわたる永遠の契約とする」と、まるで自分が言われたような気になるのです。カナンの地を所有地として子孫に与えることで、「彼らの神となる」ことを神は約束するのでした。それが契約なのでした。だが私たちは、アブラムではありません。この契約を受けた当人ではありません。
むしろ私たちは「諸国民」の一人に過ぎません。アブラムから出た子孫の中に属する一人です。否、ユダヤ人という民族の出自ではないからそうなのではない、と説明する人がいるかもしれません。「信仰によって生きる人々こそアブラハムの子孫であるとわきまえなさい」(ガラテヤ3:7)とパウロが言ったことを思い起こすべきです。
神を信じたアブラハムが義と認められたことが、ただの血筋ではない信仰の子であることを保証しています。「永遠の契約」は、いまここに及んでいるのです。自分をアブラムに擬えるというよりも、この契約を伝えられた末端の一人として受け取るがよいのです。但し、実のところこのアブラムの契約が私の信仰の中心にあるわけではありません。
私たちはいまや、イエス・キリストの契約を受けています。キリストの十字架と復活が、私の罪を赦し、無罪の判決を下してくれました。この救いを私たちは与えられています。イエスとの直接な出会いが私の要にありました。まるでこのアブラムのように、神の前に立っている点では、何の違いもありません。キリストの契約を胸に秘めながら。