あなたの神殿の復興
チア・シード
エズラ9:6-9
捕囚から解放されても、数十年の間に新しい環境を得たユダヤ人もいました。全員がカナンの地へ帰ろうと考えたわけではありません。ただ、戻ろうと決意した人々も確かにいました。祭司エズラがそのリーダーとなりましたが、帰還してイスラエルの地で見た人々の姿に呆然としました。あまりにも庶民であった彼らの姿が、一変していたのです。
周辺地域の他民族の者と結婚し、ユダヤ人の血をすっかり混血にしてしまった姿がそこにありました。これに対して、エズラは憤りを強くし、制しきれなくなりました。異民族の追放令をやがて出すことになります。ただ、それを実行するには、それなりの大義名分が必要でした。それで、これは罪故に悔い改めるのだ、という道を執ることにしました。
独り黙して祈り続けていたようです。神殿の前で、エズラは祈り、泣き伏しました。人々を呼び集めていたのではないかと思われます。すると、人に見られるために祈るな、とイエスが山上の説教で告げたことに該当する可能性があります。内容は確かに悔い改めですが、衣を引き裂くという激情の現れもまた、見せるためであるかのようにも思えます。
かつての祈りは、天の主に向けて両手を広げて祈るスタイルでした。恥じ入るあまり、顔を上げることができない、とは言っていますが。イスラエルの民の過ちが、エズラの心には見えました。そう、これはバビロン捕囚がなされたそもそもの原因だったのです。罪責が天にまで達している、という捉え方は、日本人にも理解しやすいかもしれません。
捕囚の民を「奴隷の身」と理解して天に注目しましょう。神は、この奴隷の身のイスラエルの民を棄ててしまうことはありませんでした。むしろ、慈しみを示しました。そうして人々は生きる力を与えられ、これから神の宮を再建するのだ、という号令に応じるようになりました。さあ、いまここで私たちは、何をすべきでしょうか。自覚できるでしょうか。
廃墟となったエルサレム神殿を復興することが、帰還した民とエズラの務めであると自覚されました。確かに、かつての栄光の姿のエルサレム神殿を再建したいものです。しかし、建物ばかりではありません。霊的な復興と再建が、何よりも必要でした。私たちの祈りの祭壇を再び起こし、主の前にまことの心からの祈りを今から再び始めましょう。