見よ!行け!
チア・シード
出エジプト3:1-10
ミデヤンの祭司エトロは、主に仕えるという者ではなかったと思われます。舅エトロの許にモーセがいましたが、エジプト人を殺した故にそこに逃れていたのでした。どんな思いで暮らしていたのでしょうか。寄留者となり、子まで得ました。恵まれた生活をしてきたことと。自らの出生の秘密と、複雑に重なった心理がありました。
羊を飼う中で、神の山にて燃える柴に遭遇します。普通の燃え方ではありませんでした。モーセは道から逸れて見に行きました。ヘブライ人としての人生が生まれてすぐに変わり、エジプト王家の一員としての人生もやがて変わり、モーセはずっと道を逸れて生きてきました。ここまでの人生が道を外れていたことを象徴していると思います。
そこへ、炎の中から呼びかける声がありました。モーセの名を、その声は二度呼びました。神は声を以て人に現れます。見える形ではありません。モーセはしかし驚きません。返す言葉は、この訳の通り「御前におります」ではありませんでした。「ここに」という意味も含みますが、語そのものは「見よ」と訳されることが圧倒的に多いものでした。
それは注意喚起の語です。現れた炎よりも、むしろこちらに驚いているのだと思います。神は、近づくなと言います。モーセが近づく動きを見せたのでしょう。ここは聖なる地だと神は教え、自らがヘブライ人の祖の神であることを告げます。神を見てはならないことを、モーセも知っていたらしく、思わず顔を隠します。
「主」と「神」との表記はここでは錯綜していることにも興味が向きますが、いま「主」として、主の民の苦難と叫びを知り、その痛みを知ったというのです。主は、人の痛みを分かってくださるのです。エジプトから民を救い出し、カナンの地へと導くことを、主は約束します。そのリーダーとなるべき者としておまえを選んだ、とモーセに伝えます。
「さあ行け」と主はモーセにぶつけてきます。エジプト王に遣わすから、イスラエルの民をエジプトから導き出すのだ。おまえがするのだ。さあ、これを私たちも聞かなければなりません。私たちへの呼びかけです。どこへ遣わすのですか。何のためですか。それは主が教えるでしょう。「さあ行け」、との声に、まず気づくことが肝要です。