礼拝と礼拝後
チア・シード
出エジプト33:7-11
うっかり読み飛ばしていました。会見の幕屋は宿営の外に、しかも離れたところにあったのでした。私たちは聖書を、それを映画に撮影するとどうなるか、というところまで常々考えて想像しておく必要があろうかと思います。実際にどういう配置、どういう姿であるかについて、イメージを明確にしておくべきだということです。
モーセが一人、その外にある会見の幕屋へ出て行き、主と語ります。基本的に主から話を聞くのだろうと思います。民はこの時どうしたかというと、皆立ち上がり、モーセがそこに入るのを見届けます。雲の柱が立つことが主の臨在を顕し、主が降ってきてモーセと語らいでいることが分かるので、立ち上がった民は自分の天幕のその場所でひれ伏します。
ここに、礼拝のひとつの形が明らかになります。主からの言葉を代表者が受けるのですが、それは一人ひとりにとり、他人事ではないことです。共に受けるのです。主の臨在を確認し、ひれ伏すのですが、翻って私たちは、果たしてこのようにひれ伏しているでしょうか。礼拝の中で心身共に主の前にひれ伏していると言えるのでしょうか。
イスラム教での礼拝を知ると、私たちの信仰というものがあるのかないのか分からなくなってきそうです。近代人は徳に、偉くなりすぎました。神をすら研究の対象とし、批評するようになったのです。そんなことは元来できなかったはずです。このひれ伏すというあり方を、もう一度よく考えてみなくてはならないでしょう。
立ち上がりもしています。それは十分な敬意を示すものでしょう。「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。」(レビ19:32)という律法を忘れてはいけないし、箴言にもそのような知恵が見られます。また、立ち上がることは、行動を始めることをも意味します。傍観者ではなく、自ら事を起こし関わっていく姿勢です。
ところで、ここにヌンの子ヨシュアが登場しています。すでに何度かちらりとその名前が見えていましたが、ここもさりげなく書かれています。モーセの従者であったヨシュアは、このモーセが会見の幕屋に行くときにも随行していたことが記されています。しかも、モーセが宿営に戻っても、ヨシュアはその会見の天幕を離れなかったことまで書かれています。
これは何でしょうか。ヨシュアはモーセの後継者となります。モーセ自身が果たせなかった、約束の地カナンへ足を踏み入れ、イスラエルの民を導き入れる役割を果たします。イスラエルの地での第一歩、または出エジプトの最後のステップです。それから戦いを繰り広げます。ヨシュアは主の許に留まり、主の業を見届けます。礼拝の後も主の傍にいたのです。