十戒の板にまつわる声と声

チア・シード

出エジプト31:18,32:15-16   


ただ十戒の板が与えられただけではありません。主はその場でモーセに語られました。一方的にではありましたが、十戒のエッセンスが何であるかを伝えるべく、具体的な法の事例を、様々な角度から説明したのです。やがて主はそれを語り終えます。声が途絶えたとき、石の板が授けられました。人間の手に、神の言葉が授けられました。
 
主の言葉が声として届かなくなったとき、二枚の証しの板がモーセの手に与えられました。文字が刻まれた板は、人間の側が理解するままの意味を以て読まれるものとなりました。声は語る主のものですが、文字は読む人のものとなってゆくのです。モーセはその手に二枚の証しの板を握っています。持てるほどの大きさと重さであるようです。
 
そのころ山の麓では、モーセの思いもよらぬことが起こっていました。信頼していたアロンが、群衆の勢いに押されてのこととはいえ、金の子牛を鋳造し、これを神だと示していたのです。神の作、神の文字たる石の板を手にして、モーセはその場に戻ります。まず人々の騒ぎの声が聞こえました。従者ヨシュアは「戦いの声」かと案じました。
 
モーセはそれを否定します。あれは歌声だ、と。主への賛美の歌ではありません。悪い予感を抱くに十分な、狂乱の歌でした。私たちの文化の中に、そのような歌があると私たちは認識しているでしょうか。賛美の歌も、そんな声に成り下がっていないか、考え直す必要があります。神の板からの声をこそ、聞いているでしょうか。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります