民とモーセとの立ち位置

チア・シード

出エジプト記20:18-21   


宿営にいた民は、皆震えます(19:16)。雷鳴と稲妻、角笛の音が聞こえたからです。モーセは、民を神に出会わせるために宿営から連れ出しました(19:17)。山には境が設けられ、民は麓にいてシナイ山に登ってくることはありませんでした。モーセとアロンだけが登って行きます。そこで十戒をモーセは聞き、板を受け取るのです。
 
石の板が与えられるまでには、さらに四十日かかります。本日の箇所は、民の視点からです。雷鳴と稲妻と角笛のしるしが再びあって、民はまた震えます。遠く離れて立っているだけです。ここでモーセとのコミュニケーションが成り立っています。神から直接コンタクトがあると自分たちは死ぬので、モーセが介在してほしいと願っています。
 
シナイ山は木のないような裸の山です。ひどく高いわけではありません。上と下とで声による会話がありえたとするべきなのでしょうか。そうとでも考えないと、この情況が理解できません。シチュエーションが私にはよく分からないのです。民は神とのコンタクトを拒みます。直接神の声を聞くと死ぬのだと恐れています。
 
モーセが間に入り、神に代って語ってくれと頼んでいます。それに対してモーセは「恐れてはならない」と言います。これは試みであるとして、罪を犯さないようにするためだ、と説明しています。そして最後に記事は、民が遠く離れて立っていた、とまた強調しています。どうしても神とモーセとを際立たせたかったようにも見えます。
 
まるで教皇が、あるいは司祭が、神と人との間に立っているという図式を正当化させるような場面です。神の下にある民の一人ひとりを相手にするような暇が、神にはなかったのかもしれません。それとも、このモーセがキリストの役割を果たしているのでしょうか。あるいはまた、キリスト者がモーセとなって、世の人々の前に立つべきなのでしょうか。


Takapan
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