知恵の言葉とは何か
チア・シード
コヘレト12:9-14
一切は空、とまた初めに戻ったような言い方をして、コヘレトの言葉は締めくくりにかかります。コヘレトの知恵は、かくして書き留められたのだとまとめ、いったい知恵とはどういうものかについてぶつぶつ言うような感じです。コヘレトは、格言を探究し、まとめ分類しました。ふさわしい言葉を見つけては、真実の言葉を書き留めたのだ、と。
こうしてこのコヘレトの書ができたということが分かりました。知恵の言葉は、聖書全体から見て、そのひとつのジャンルをつくる大きな部門です。神からのものであるのか、人の声なのか。単なる人間の知恵でしかないと見ることも、確かに可能ではあるでしょう。さしあたりどちらの側にあっても、これらの言葉は受け止める価値があると思います。
だからこそ、日本人にも読みやすい面があるとして勧められるし、この書から聖書に惹かれていくことがあってもよいと思うのです。知恵ある人の言葉が、突き棒や釘にたとえられています。これは突き刺さるものです。心にくいこみます。これを、ここでは牧者により与えられたと言っています。牧者とは誰か。新約の立場からすれば、イエスです。
ヨハネの福音書が、わたしは良い羊飼いであるとイエスに言わせたことがありました。ただ、書物というものはいくらあっても際限がないものです。私も日々実感していますが、まだ諦められず、また本を求めてしまいます。コヘレトは、専ら書く側にいます。本人としては、ただ内から浮かんだ知恵でなく、上から与えられた知恵だと理解しています。
そしてこれは、集めたもの、探し出したものだと言っています。聞き取った知恵、聞かされた知恵についても触れますが、それは神からの霊や知恵によってもたらされたのだということを、コヘレトは十分承知していると思います。だから、この書の最後には、もう一切は空だとは言わずに、神を恐れよ、という隠し球のような言葉をぶつけます。
神を恐れよ。その命令を守れ。これに尽きる、というように、卓袱台をひっくり返すように言い切ってしまいます。これが人間にとりすべてであるのだ、と。ひとが何をどう隠そうと、すべては神の前には明らかなのです。神の裁きの下にあるのが人間というものなのです。これを弁えているということが、知恵の言葉のなせる業であるに違いありません。