人間はしょせん若者
チア・シード
コヘレト11:7-12:2
知恵という形で、人の生き方に問いかけています。殊にここでは、若者が、この教えを聞くものとして設定されています。光があることを喜ぶ一方で、闇の日というものをも意識しなくてはなりません。むしろキリスト者は、闇のあることに気づいたからこそ、光の方に救いを知り、喜びが与えられる、ということなのでしょう。
けれども人間の立場からすると、そこに光があることは、さも当然のものとして理解しているかもしれません。そこにあるものは、実は「空」です。これを弁えることによってこそ、与えられるものが意味をもつ、ということを私たちは知るべきです。これを、特に若者に伝えたい。ソロモンともされるこの知恵者は、大人の立場から若者を諭します。
若さは確かに素晴らしいものです。若いときの喜びというものは、ありがたいものです。しかし、すべてただ楽しいだけで終わるものではない、と弁えておく必要があるわけです。否、知恵者の口調は「弁えろ」です。自分の心に適う道をただ歩めばよいというのではないのです。とはいえ、これは若者だけに言えばよい戒めなのでしょうか。
凡そ人間一般における戒めではないか、と考えます。私たちは、己れの心を第一として、自らの意に適うことを以て、よしとするばかりです。人間は常に自己義認ばかりしています。そしてそうしている間にも、神は人の思いと違うところに立っています。神は人の思いのままに判断を下すのではありません。神の裁きは、人の思惑とは全く別に働きます。
知恵者は、心から悩みを取り去り、その体から痛みを取り除け、と語りました。若さも青春も、そして人の一生も、また特別偉大なものではありえないのです。若き日に造り主を心に刻め。人間はせいぜい、若いままに一生を終える程度の短い時間の中を過ごすだけです。束の間の喜びではなく、永遠の喜びが、実は待ち受けていることに目を向けましょう。