屈しない信仰
チア・シード
申命記7:6-8
カナンの地には、数が多くて力の強い七つの国民がいました。申命記の主は、彼らとの共存を図ることはありませんでした。必ず滅ぼし尽くさなくてはならない、としたのです。イスラエルは、彼らと比べれば弱小な民族にすぎません。だから、亡ぶのだ、という理屈ではありません。強い国々の神々に仕えるようになることが、最大の懸念なのでした。
そのため、他の神々の信仰の像や礼拝所を滅することが要求されました。そこで神は告げます。イスラエルは、そうした偶像崇拝からはっきりと区別された民である。「宝の民」とまでそれを呼び、主は特別扱いしました。これを少ない小さな民族であったから、との理由にしているのは、一つのレトリックではないかと思われます。
「あなたがたに対する主の愛のゆえに」選んだのであり、また「あなた方の先祖に誓われた誓いを守るために」、主はエジプトからイスラエルの民を導き出し、救ったのです。小さかったからという理由ではないと思います。主の一方的な愛と誓いの故なのです。しかしそれでも、「少なかった」ことは慰める言葉となるでしょう。
人間の集団としての大きさや強さが神と結びつく条件ではない、とするからです。アッシリアやバビロニアに支配された経験のあるイスラエルにとり、小国としての運命は十分分かっています。でも軍事権力がその肉を切っても、骨を断つことはできませんでした。主の真実は、暴力に屈しはしません。現代にこそ訴えたい信仰だと思います。
なお、滅ぼし尽くせという主の命令は、いますぐ直ちに、というわけではなさそうです。この直後に、「あなたの神、主は、これらの国民を、あなたの前から少しずつ追い払われる。あなたは彼らを一気に滅ぼすことはできない。あなたのところで野の獣が増え過ぎないためである」(7:22)と言うからです。いずれ滅ぼし尽くすのだとしても。