神の思いはほんとうは
チア・シード
申命記32:19-27
逆らう世代、真実のない子ら。容赦ない言葉の鉄槌が下されます。神は一度、民への怒りのために、彼らを滅ぼそうとしました。その怒りのありさまが、実に具体的に記されています。モーセは、神に呼ばれて、独り山にこもり、神と語り合った、とされています。だからこそ、神の怒りの様も、具体的に分かりやすかったのかもしれません。
まず、顔を隠します。さあ人間どもよ、どうするか。遠藤周作の『沈黙』や、苦難のヨブへの静観にもつながるものがあるかもしれません。神ならぬもの、空しいもので、神を怒らせてしまいました。同じように報復しようなどという主が、なんだか人間臭くて笑いそうになりますが、他人事ではありません。怒りの火は燃え上がり、激しく焼き尽くします。
災禍は、神がもたらすものとされており、飢餓や疫病も、神から来るものとして描かれています。それから破壊が起こされます。あらゆる具体的な恐怖が、人々を襲います。神は、民を切り刻もうとしています。イスラエルの記憶が世界から消えるようにしてしまうのは、余りに酷です。逆に言うと、イスラエルの名が今に遺るのは、ものすごいことです。
古い民族の名も、旧約聖書があるからこそ、今に伝えられるのであって、現在民族の形をなしていない人々も、私たちは知ることができます。民族は滅んでも、皮肉なことに、名は伝えられているのです。神は、奇妙な論理あるいは感情を、ここで明らかにします。イスラエルの敵が、自分たちの正しさを誇るようになるというのです。
そんな勝利宣言が、あってもよいものでしょうか。そうなると、主なる神の不名誉なことを証しするようなことに、なりはしないのでしょうか。ここにあるのは、ほんとうに神の思いなのでしょうか。モーセの、否さらに言えば申命記の記者グループの見解として、人間の論理や感情を、ここに反映させている、ということなのでしょうか。