語り聞かせる律法
チア・シード
申命記31:9-13
モーセが律法を書いています。申命記という舞台は、モーセが確かにこれを書いたことを表明しています。これを七年毎に、人々の前で読み上げなければならない、と言っています。仮庵祭に、イスラエルのすべての人々が主の前に出て来たとき、読み聞かせるべきだというのです。老若男女、子どもも含み、寄留者も共に、そこにいるといいます。
対象はイスラエルです。寄留者もその対象に入ります。今の私たちもそこに含まれるとみるべきです。主の前に出るのが七年毎ではなく、七日毎になっていますけれども。否、いついかなる時でも、きっとそうなのです。寄留者は町の門にいると書かれていますが、門の内側、つまり共に住んでいる市民だ、ということなのでしょう。
羊の門の内にいるとのことです。羊ということで、キリストが潜んでいるイメージを、新約の徒は見るかもしれません。律法が読まれます。余計な説き明かしは要らなかったようです。ただ本文が読まれました。音として響きました。これを聞いて学ぶのみです。学べば、それに従って守り行うということになるのでしょう。
子どもたちもこれを知ります。次の世代へも確実に伝えられていくことが想定されています。ヨシュア記の時代に入っても、その土地で生きている限り、主を畏れるようになために、読み聞かせなければならないのです。文字を読む能力の有無が当時の人々に問題になるとはいえ、律法はやはり耳から入ってくるということを改めて覚えます。
さらに、その教えが世代から世代へと伝えられていくことをも知ります。共に住むのであれば、老若男女すべてが対象であり、外国人も条件は同じであることを、しっかり受け止める必要があります。これが現代になると、新約の福音という新しい掟を、こうして語り告げることになります。誰もが命の福音を聞くことができますように。