何の害も認められなかった
チア・シード
ダニエル6:19-27
ダニエルには何の害も認められなかった。自分の神を信頼していたからです私たちが握り締めたい言葉です。預言書として見るダニエル書には、ストーリーがふんだんにありますが、そのうちの一つのハイライトとなる箇所です。ユダヤ側ではダニエル書は預言に含まないものと考えられていませんが、終末へのカウントダウンの中での出来事ではありましょう。
神を信ずる者すべてが心得ておきたいメッセージです。ダニエルは穴から引き出されたのでした。穴に入れられていたのでした。私たちも穴にいるのでは、と思う方がいたら、しみじみとその恐ろしさが分かることだろうと思います。ダニエルを穴に入れたのは誰でしょう。ほかならぬダレイオス王でした。いえ、王が不用意にこしらえた法でした。
法的な主体たるものは定義しにくいのですが、その責任は人としての王にもあったことでしょう。それとも企んだ高官たちのほうでしょうか。意見はありましょうが、人を避けたならば、この法たるものが主体でしょう。地上の王たる者、一旦口から出して定めた法は、人格的な力を伴って力を及ぼすことになってしまうのです。
王の他の神に祈ることは御法度。暴論です。でもこれが今の夜には消滅したことだとは言えないのではないかと危惧します。見渡せば世界にこのような法の国があります。身近な町内会にもありそうです。その不条理な仕打ちに抵抗しなかったダニエルは、獅子の穴に投げ込まれても、少しも傷つくことはありませんでした。脅しに神の護りが勝りました。
けれども現実の世の中では、このようにうまくいくとは限りません。いえ、きっと痛い目に遭うでしょう。石を投げられ、職を失い、食するにも困り果て、病の内に倒れる惨めさを味わわされ、助けもなく死んでいくことさえあるのではないでしょうか。それでもなお害がなかったとでも言うのでしょうか。
新共同訳では「その身に何の害も受けていなかった」ですが、聖書協会共同訳は「害は認められなかった」。誰が害の有無を認めるというのでしょう。それが神であると信じる途が残されていると考えたいのです。無理だと弱音を吐きそうになる心を抑えて、神はそれを害とは認めない、と口にします。そのとき私は再び立ち上がり、歩き始めることができるのです。