いびつなものを合わせて
チア・シード
コロサイ3:12-14
違いがあるのは新しい人か古い人かということ。ユダヤ人かギリシア人かなどという区別ではない。人類を二つのグループに分けるとすれば、キリストにあって新しくされた人か、罪のままの古い人か、ということでしかない、という考えがここの根底にあるといえます。キリスト教会に属するメンバーは、神に選び出された者たちなのです。
これを聖といいます。特別な存在とされたということです。世の人々がどのような価値基準をもち、それを盛んに口にするのだとしても、そしてそれこそが常識だと牙を剥いて叫んでいても、キリストの徒はどこまでも善を追い求めることができるのです。世が「そうは言っても」と善を覆い隠すことをよしとしていても、です。
彼らは、正直に生きることは損だと嗤うかもしれません。しかし神にあるということは、そうした刹那的な投げやりのものの考え方を、圧倒的な力で粉砕し、廃することができるのです。慈愛や謙遜、柔和も何もかも堂々と目指して身につけていこうとすればよいのです。それが許され、喜びとするように導かれているからです。
教会内部のことであろうと思われますが、互いに不満を懐くことがあっても許し合うように促されています。不満をもつこと自体を否定してはいないところが慰めです。人間どうし、ぶつかれば不満はあって然るべきもの。不満そのものが不合理なのでもないし、不道徳なのでもないのです。不満自体、悪だと拒絶するような了見の狭さを聖書は示しません。
但し、不満を展開させないことは必要かと思われます。なんといっても、主があなたを赦してくださったのです。なにかしら不満をもちつつその不満を抑えるというようなことがあっても、その上に愛を羽織っていくことが勧められています。ここでは結びの帯として、すべてのものを束ねしっかりと離れぬよう、形が崩れないようにと縛っているイメージです。
これは一つの絆とも言えましょう。絆はほだされ束縛するものですが、キリスト者の共同体は神の運命に縛られています。自由という束縛です。キリストを着よ、という指示も多々あります。多少いびつで、不揃いであることも覚悟の上です。教会は様々な人間を、いびつなままに一つに束ねられた形で、許し合っていられるところであるはずです。