復活の教義

チア・シード

使徒2:22-28   


ペンテコステというと、ペトロの説教を取り上げなくてはなりません。舌が頭上に留まった瞬間に、生まれ変わったように力が漲り、旧約聖書の意味を解き明かすという芸当には、ちょっとついて行きにくいものです。むしろこれは教会の教義として、信徒に理解させるために、物語形式で描いていると考えたほうがよいのではないかと思います。
 
これは私たちも受け取らなくてはならない教えなのです。引用が終わった時点で、ペトロが自分の言葉で述べ始めたところを、今日は味わいましょう。ナザレのイエスとは誰か。そこから入ります。神から遣わされた方であり、奇蹟などの技で確かに示されたのだといいます。神は計画をもっていました。あなたがたユダヤ人に、この方は引き渡されました。
 
そしてユダヤ人たちが、この神の子イエスを磔にしたではありませんか。これは怒り狂うことも想定できましたが、ここでは人々は心を打たれたと次に言います。救われるためにするべきことまで尋ねたほどです。だからこれは、何かしら信じる気のある人々へ向けての説教です。教会に曲がりなりにも足を運んだ人に対しての、教義の説教です。
 
神の力によりイエスは復活させられました。死の苦しみの中に閉じ込められることはなかったのです。死の支配の内にあるのではありません。これは当時の人々の慰めとなったことでしょう。暗い世界の中に明るい知らせをもたらすことになったのです。そしてダビデの詩を持ち込みます。その時の人々に相応しいメッセージ立ったからです。
 
それは「あなたは私の魂を陰府に捨て置かず」「命の道を私に示」す辺りに強く感じられます。イエスは復活させられました。信じる者をもその復活の恵みの中へ導くことで、希望をもたらす説教です。いろいろあったキリストの弟子たちが忘れかけていた喜びが、いま満ちてゆきます。私たちにもこのメッセージが、届いているはずです。


Takapan
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