聖霊が降った日

チア・シード

使徒2:1-4   


イエスの十字架刑から復活、昇天と一連の出来事と弟子たちは出会ってきました。ユダの死を見届け、十二人にするためにもう一人の使徒をくじで選びました。彼らは、一つに集まることを忘れてはいませんでした。迫害を恐れての情況ですが、ばらばらになりそうなところを、同じ場所に集まっていたということ自体に目を留めてみたいと思います。
 
新メンバーを補って12人という形式を揃えるほどに、共同体としての姿を形成することにこだわっていた弟子たち。本来、ばらばらに散ってそれで終わりでも仕方がなかったはずでした。もう集まらなくてもよかったかもしれません。復活のイエスの指令がなかったら、きっとそうなっていたでしょう。それでも肩寄せ合って震えていたように記録は描きます。
 
50日目の祭のとき、弟子たちもまだ隠れて集まっていたのでしょうか。そこへ、轟く音と炎のような舌が現れて、一人ひとりの上に留まったというのです。一同は聖霊に満たされ、他国の言葉で語り始めました。ルカは安易に異言と呼ばず、他国の言葉だとしています。それを聞いた各国出身者が、確かに自分の故郷の言葉だと証言するためでもありました。
 
聖霊が来て顕著な現象があったという記録です。これを以て聖霊降臨日ということで、教会は教会の始まりの日だと位置づけてきました。しかし、同じ場所にそれでも集まっていたという彼らをこれほどまでに促していたものは、何だったのでしょう。弟子たちの信仰でしょうか。このしがみつく強さは、すでに聖霊が働いていたからではないのでしょうか。
 
ペンテコステの日に初めて聖霊が降ってきました、という物語は分かりやすい。でもそれでよいのでしょうか。私たちにとってそういうお決まりの物語としてしまうには、聖書の呼びかけは、つまり神の言葉は、パターンの中に収められるほどのちゃちなものではないように思います。皆は一つに集まっていたのです。すでに聖霊の導きがないはずがありません。
 
すでに神は共にいたのです。イエスの霊が共にあって支えていたのかもしれません。目立つ異言めいた現象がなくとも、常にすでに主が共にいて、支えて下さっていました。私たちが何かをしたとか、信じたとかいうその前にも、神は信実に助け導いていたのだし、いまもこれからも導くのです。私たちはこれを確かに信じていようではありませんか。


Takapan
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