終末論を噛みしめる

チア・シード

ペトロ二3:8-13   


終末観を色濃く出している書簡です。ペトロの手紙という名でありながら、パウロの弟子によるものであろうと推測されていますが、その関心は世の終わりについてであり、その約束が遅れていることについての疑念を除くことにありました。いくらキリストが再び来てこの世の終わりが迫っていると叫んでも、そのうち人はついて来なくなるかもしれません。
 
終末論のパラドックスがここにあります。終わりが来ると言いながら、それが来ないと厭きられるのです。結局来ないではないかと言わせないために、時を設定する誘惑に駆られますが、そうすると墓穴を掘ることになります。しかしいつまでも釣っておくわけにもゆかないというジレンマに苛まれるわけです。
 
一人も滅びないように遅らせているのだ、というちょっと苦しい言い訳にも見える言葉が見られます。ヨハネによる福音書の有名な言葉を重ねる思いがしますが、果たしてどうだか。できるだけ多くの人を招き入れるために、神が待っているのだという論理ですが、受け取る側はどう感じたでしょうか。それでも書き記した勇気をいまは買いたいと思います。
 
その終わりの日は、こちらが思いもよらぬ時にやってくる。盗人のように、というから当時の治安が悪かったとすべきなのか分かりませんが、いまの感覚とどう違うのでしょうか。自然物は焼け崩れるというのは、いまの私たちにもなかなかリアルな描写であるようにも感じられます。この崩壊を迎えるにあたり、私たちはどんなに敬虔さが求められていることか。
 
摂理から自身へと目を向けさせる効果をもつ表現ですが、神の日の来ることを私たちは動かすということはできません。それでも、それを待ち望むという姿勢をもつことで、早まるのかもしれないし、少なくとも心理的には備えることができることでしょう。その後に新しい時代が訪れ、義に輝く新天地が与えられることが信じられるならば幸せものです。
 
いずれにしても、良い生活を送ること、これがすべてです。待つ千年も一日のように感じられるし、神の目には一日と等しいことが当然と考えられます。約束は確かだと言いたいのです。厳しい終末を見つめる眼差しは、いまや益々薄まっていくように見受けられます。聖書を信じると口では言いながらも、私たちはどんどん生温くなっていくようにも思えます。


Takapan
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