祈りの当事者性
チア・シード
歴代誌下6:18-23
神殿が完成し、契約の箱を納めました。実質、神を招き入れたという形になりました。イスラエルの歴史の中でのピークがここにあった、としてもよいのではないでしょうか。ここで献げられたソロモン王の祈りは、イスラエルの、歴史的礼拝でありました。長いその祈りが収録されています。歴代誌は特に輝かしくこの様子を描きます。
歴代誌は、特にユダのことを誇らしげに記すのです。その祈りの中程にこの箇所があります。このような地上の神殿如きに、主を入れることなんぞできないと十分分かっているけれども、いま献げられる祈りを、どうか聞いてください、と言っています。それはどんな祈りなのでしょう。確かに「祈りと願いを聞き入れてください」とは言っています。
しかし、「聞いて、お赦しください」がすぐに続くのです。祈りは、罪の赦しを願うことのようです。人は罪を犯すということが、神に祈るということに直結するのです。ソロモンは、少なくともそう告げているのだと思います。しかしソロモンは、果たしてどこまでそれを自分自身の問題だとして考えていたか、それは私たちには分かりません。
この後ソロモンの心は、主からどんどん離れて行ってしまいます。まさか自分だけは例外だとして、このとき祈っていたわけではないでしょうが、私たちもまた、表向き信仰深いような祈りの言葉を口にすることがありますし、他人のために執り成しの祈りを献げることもあります。けれども、自分はその輪の外から眺めているようなことはないでしょうか。
祈りとは何なのでしょう。今一度噛みしめたいと思います。罪を自覚した者が、神への祈りの中で赦される、というのが祈りの一つの姿でしょう。罪を他人に対して行ったときの裁きも、主によるものです。人が全ての裁きを決めることはできません。ソロモンが祈っていたその点は、確かなものでした。それでも、自らそれを裏切ることがあるのです。