主の目と心はいつもそこに

チア・シード

列王記上9:1-9   


いったい幾度主はソロモンに同じことを告げればよいのでしょうか。父ダビデと同じように誠実に主の前を歩み、その掟と法に従うならば、イスラエルの王座を守り、祝福を与えよう、とまたもや言うのでした。神殿が建つ以前に、重要な高き所であったギブオンで、ソロモンが知恵を願ったとき、財も与え祝福するという仕方で主はソロモンに会いました。
 
そのときのように、神殿奉献の後、主はソロモンに再び現れて、事の次第を確認しているのです。「あなたの祈りと願いを聞いた」という確かな宣言は、確かに嬉しいものでしょう。神殿は、聖別されます。つまり、特別なものとして認められます。「そこに私の名をとこしえに置く」のであり、この「とこしえ」が私たちから見れば曲者なのです。
 
つまりソロモンは、まさかそれが天の都エルサレムをも射程に入れるとは考えなかったはずですが、キリスト以降の私たちは、それを十分想定できるようになったわけです。「私の目、私の心はいつもそこにある」という力強い言葉は、しかし厳しい結果をもたらすものともなるのでした。主に背を向けて離れ去る人間の姿がその後あったからです。
 
他の神々にひれ伏すイスラエルの民は、物笑いの種にもなるでしょう。主に捨て去られた姿は笑いものです。神殿は廃墟となり、主のいない空虚な建物に過ぎなくなるのです。人が他の神々を拝し、主を捨てるようなことをしたら、実は主の方がその民を捨てていたということになってしまいます。それにすら気づかぬほど、主を見ていないわけです。
 
イスラエルは、そういうものになってしまっていた。それが列王記の記者の見ている風景です。イスラエルのその後を知る者がこれを書いています。涙ながらに書いているのではないか、と私は想像します。神の痛みを身に受けて、書いているのではないか、と。神殿が破壊されたのは、全く以て私たちイスラエルの民のせいではないか、と涙しながら。


Takapan
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