全地の民へ

チア・シード

列王記上8:41-43   


奉献式でのソロモン王の祈りの一部を読みます。「あなたの民」と呼ぶものがイスラエルであることは明らかです。しかし「外国人」と呼ぶ民であっても、この神殿と関わりをもつことができる、という光が、ここに射しています。これは、イスラエルという名を、血筋によりつながりだと見ていることを意味するのでしょうか。
 
「外国人」は、遠くからここにやってくることになっています。後にパウロが「新しいイスラエル」と称して、キリストにある者たちを励ましたことを連想します。しかし今は、ユダヤ人という民族ではないけれども、ユダヤ教徒となり得る形を含みながら、エルサレム神殿へ主を礼拝しに来る人々を、念頭に置いているように思われます。
 
ソロモンの時代に、本当にそうした人々がいたのでしょうか。いなかった、と決めてしまうことはできないでしょうが、後の時代の現象を反映させているのかもしれません。遠い国から来るそれらの外国人にも、「同じようにしてください」とソロモンは祈りました。この願いは、これまでのイスラエルのあり方からすると、ずいぶん開かれています。
 
主の名が全地に轟くことを思い描いているように見えますが、えらくオープンなものです。全世界を創造した主ですから、すべての人が主を仰いで当然である、と聖書サイドからは当たり前のように言うかもしれませんが、これまでの歴史は、この主がイスラエルを愛し導いてきたことを本筋としていました。他の民族を滅ぼすことが正義だったのです。
 
それとも、ここでもことさらに「外国人」と呼ぶことで、やっぱり外国人を別扱いとしていると見たほうがよいのでしょうか。主なる神が全世界の主であるということへの、一つの経過段階であったのかもしれない、とも思えます。この先きっと、「外国人」の救いがこれから起こることで、主の名が「全地の民」へ知られることになるのです。


Takapan
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