神殿と偶像
チア・シード
列王記上8:27-32
神殿奉献の際のソロモンの祈りの一部を読みます。祈りを読む、というのも不思議な感じです。主は、こくちゃちな建物に住むような方ではないでしょう。そもそものコンセプトを崩すような発言です。あなたがここにいるために立派な神殿を作ったのではなかったのでしょうか。しょせんそれは、人間の願望を満たすだけのものだったのかもしれません。
ソロモンの自己満足のためのものかもしれません。被造物がどんなに大きなものだとは言っても、そこに神が収まるはずなどありません。ましてこんなちっぽけな建物では何にもなりません。でも、そこで人は祈ることができます。神に聞かれる窓口、などというとつまらない比喩でしょうが、人はここへ来て神と向き合う事ができるというのです。
ここで、ひとつ考えてみたいことがあります。偶像の問題です。偶像を拝む者を、聖書は徹底的に非難します。揶揄までして、偶像がどうするのだと嘲笑います。しかし、像を拝む人はこう応えるかもしれません。我々は像を神だとは考えていない、この像を通して霊的なものとつながっていると考えているのだが、それが何か悪いのか、と。
この論理とソロモンの考えと、どこがどう違うのか、はっきりと説明ができるでしょうか。「そこに名を置く」という主の権威までソロモンは定めます。ここで祈ることで、主の名、つまり主の本質的なものと結びつくと言っているのです。僕ソロモンと主がこうしてつながるのと共に、イスラエルの民もまたつながろうとしています。
だから天からこれを見て、祈りを聞いて戴きたい。天とは主の住まいです。「天」という概念もまた、微妙な響きをもっています。「神」のことでもありますが、少し空間的に感じれば「天」としか呼べないかもしれません。マタイが「神」を「天」と呼んだことを思い出します。聞いて赦してほしい、と願うその「赦し」にも注目したいところです。