ここに愛がある
チア・シード
ヨハネ一4:7-12
ここに愛がある。私にではありません。教会にでもありません。私たちは、愛し合おうと呼びかけられているだけです。その愛は、神から出ています。神から注がれる愛の故にこそ、ひとは愛することを知ります。神との交わりがあるからこそ、愛するという事柄が可能になります。でも、本当に可能になるのでしょうか。自分を見ると落胆します。
神を見よ。神を中心にして、それを見つめたままを捉えましょう。神は独り子を世に遣わしたではありませんか。私たちはそのことによって、生きるようになったではありませんか。神の愛が示されたのです。神が私たちを愛したのです。私たちの罪に対して、生け贄としての御子を与えたのです。人間の方が神を愛したなどと言ってはいけません。
遣わされたのはイエスです。死んで命を与えたのです。ここに神の愛があります。それがいま明らかにされました。この神の愛で深い体験を味わったというのなら、私たちは互いに愛し合うことができるはずです。それは疑わしいことです。でも、やはりそうなのです。その可能性が開かれていることは、間違いないことだと受け止めるべきなのです。
望むべくもないような綺麗事が、確かな可能性として待ち受けているのです。その「私たち」とは誰でしょう。この言葉を自分のこととして引き受けた者たちのことではないでしょうか。すべての人間だと言っているわけではないのだと思います。イエスを自分の救い主として信じた者たちです。自分の罪を痛感し、イエスの愛に生かされた者たちです。
ヨハネの名を掲げるグループは、イエスを信じることについては、他のグループとひと味違っていました。信じたかどうか、それは大きな試金石でした。神を見た者でなければならないことはありません。むしろ、私たちが愛し合うことで、神が明らかにされ、神の愛が証しされたことになるでしょう。教会はかくあるべきだと襟を正されます。
ひとの姿としてはみすぼらしいものであるかもしれません。教会に行っていても、失敗やよくないことに明け暮れる、惨めな者であるとも言えるでしょう。でも、その土の器には宝が備わっています。内には光輝くものがあります。イエスの愛です。イエスを遣わした神の愛です。この神の愛により、私たちは見えない輝きを与えられているのです。