反キリストについて語ることの必要性

チア・シード

ヨハネ一2:18-27   


「反キリスト」、教会では案外あまり語られることのない言葉です。語ることを控える空気があるのかもしれません。ギリシア語でも分かりやすく「アンチクリストス」であり、誤解のしようのない形です。キリストの反対者です。だからこそ、どこかキリストと共通点をもち、比較対照される形でその正反対ということになります。
 
「今は終わりの時です」と手紙は告げています。それからこうして二千年間くらい続いています。この反キリストの出現については、「かねて聞いていたとおり」であるといいます。福音書の中でイエス自身が小黙示録などと呼ばれる箇所でも述べていました。「私たちの仲間」、つまりキリスト者や教会のグループとは遺失の集団でありました。
 
もしかすると、少し他の教会と距離をとっていてたヨハネのグループが、他のキリスト者のことを警戒している可能性があるとも思われます。しかし、いまは詮索を入れないでおきます。ヨハネのグループは、イエスを「真理」だと捉えています。この仲間は、「皆、真理を知って」いると言います。ならばそこから偽りは出てこないでしょう。
 
「イエスがキリストであることを否定する者」が偽り者なのです。「御父と御子を否定する者」のことです。こうしたことは、「初めから聞いたこと」であり、「内にとどまる」ようになっているはずです。「これこそ、御子が私たちと交わされた約束、永遠の命」である、とまで言っています。それはヨハネ文書の鍵となる概念でした。
 
この流れの中にいるのが仲間の条件でした。反キリストは、「あなたがたを惑わす者」です。「聖なる方から油を注がれている」ならばこれに勝てます。注がれるという語は、受けるという訳にもなり得ます。この「油」をルカならば聖霊と表現したことでしょう。反キリストの教えに迷うことがないように。それが今私たちに必要なことです。


Takapan
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