霊と知恵

チア・シード

コリント一2:11-16 


コリント教会に、パウロはずいぶんと手を焼いています。そこへ宛てた手紙には、時に感情を露わにしながら、実際の教会生活の問題を多く記している、そんなイメージがあるかもしれません。しかし手紙の初めのほうには、かなり理論的なことが書かれています。前置きであるかのようでもありますが、これからパウロが逐一示していく細々としたことを総括する思いであるような気がします。
 
もちろん十字架のことも言いますが、たいへん目につくのが「知恵」という言葉です。知恵や知識を誇る動きが、危険だとパウロは見たのではないかと思うのです。イエスの話が伝えられる。イエスのことばが寄せられる。ああ、それはこういう意味なのだよ。神はこう言っているのだ。いや、違うと思う。いや、こちらが正しい。なぜなら……。知識により、また知恵により、「正しい」者が複数現れるので、分派ができます。
 
理屈で処理しようとしがちなタイプの人は必ずいます。恰も神のことばを皆説明しきったような顔を平然としています。いまも、います。自分が聖書の謎を解き明かしたぞと言わんばかりです。しかし、パウロは神のことばを貫いているものが、人間的な知恵ではない別のものであると確信しています。神を話題にしていても、結局人間の論理で議論するかぎり、それは人間の理論です。パウロからすれば、神から与えられる知恵はそれとは違います。これを「霊的」と呼んでいます。
 
人間を認識し、叙述することは簡単ではありません。それを認識し語る主体そのものが人間であるため、自分自身へ言及するという、哲学的に難しい課題が現れてくるからです。つまりは超越論的な議論が必要になるわけですが、パウロはそうした視点を霊的と呼んでいるように見受けられます。そうなれば、神について言及するには、神の霊が霊的に必要です。
 
もちろん神はそれができるのでしょうが、人間が何か神について知っていると言うためには、神の霊を受けるよりほかに可能性はないと考えるのです。当然その神の霊は、人間の外から来ます。神の霊は恵みとして与えられ、受けるよりほかありません。それは人間の思いつきや知恵で見出せるものではありません。もちろん神の救いというものは、神の霊が確信させるものです。
 
しかし、パウロの受けたものが神からのものであるという保証はどこにあるのでしょうか。パウロの言うことに限って、人間の知恵ではなく神からのものであると、どうして正当に言うことができるのでしょうか。゛たれがそんな主の思いを知っているなどと言えるのでしょうか。パウロの論拠は、必ずしも強くはありません。キリストの思いを抱いているからだ、とかわすのが精一杯です。
 
手紙はこの後、コリント人々は霊がちっとも分かっておらず、肉的な人間だと断じていきます。やはり、知恵を誇っている、その理論的な派の乱立支配を懸念しているように見えます。しかしパウロの思いは、コリント教会の人々に、適切に伝わるでしょうか。この手紙は、どんな影響を与えたでしょうか。宣教の難しさを覚えます。しかし、このようにパウロの思いは、神のことばとして、すべてのキリストの弟子たちのカノンとなりました。


Takapan
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