ついに雨が降る
チア・シード
列王記上18:41-46
「四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシェラの預言者」(18:19)を、エリヤは処刑しました。民衆の前で、「主こそ神」(18:39)だということを明らかに示したことで、イスラエルの民はエリヤに味方したのです。「預言者たちをカルメル山に集めた」(18:20)とは言っても、そこはむしろ麓の方ではなかったかと思われます。
この血生臭い処刑は「キションの渓谷」(18:40)で行われたといいます。いまやエリヤを味方とせざるを得なくなったアハブ王は、雨が降るとのエリヤの言葉をどう聞いたでしょうか。これまで三年を数える間、主が旱魃をこの地に与えました。が、ついにその旱魃が終わる、という預言です。しかも「激しい雨の音がする」という幻まで存在しました。
エリヤは王に、宴会でもしておけ、と言いました。「上って行って」というのは、幾らか高い場所にあったのかもしれないからでしょうが、宿営地という意味なのでしょうか。ところがエリヤは、カルメル山の山頂まで登っています。標高5000mは下らないと思われますが、エリヤはそこで、深く拝礼するような恰好をします。祈っていたのでしょう。
それから従者に、ここへ来て「海の方をよく見なさい」と命じます。するといわゆる、手ほどの雲が見えてきます。雨の兆候です。七度目に見たときのことで、エリヤはアハブにこのことを伝え走るようにと促します。やがて、雨が襲います。馬のつながれた戦車に乗ったアハブ王を、エリヤが走って先導していたのがユーモラスかもしれません。
しかもエリヤは「裾をからげて」いたというのですから、余計にどこか微笑ましくさえ思えます。いやいや、あれだけの大量殺人の直後に、ひょんな笑いを入れる場合ではありませんでした。大袈裟な表現がなされているのかもしれません。でもそのことが、物語の価値を下げるようには思えません。エリヤは、預言者としての役割を果たします。
この雨は神の霊の及ぶことと見たいし、旱魃は信仰の渇きであってほしいと願います。この後エリヤは、イゼベルに命を狙われて弱気になり、落ちこみます。でも神は、続くエリシャを預言者に立て、神の言に立つ絶対的な力を見せつけることになります。まずは少なくともアハブがこのとき、主なる神の前に、確かに項垂れたのです。