たかぱん

 結婚という契約

びっくり聖書解釈

 浮気が不倫と呼ばれるとき、文字通りに、倫理をなくしたように見えて仕方がありません。浮気は悪いもの(お叱りを受けるかもしれませんが「軽い」程度の)と認められていても、不倫なら、むしろそちらの方が正当である、という響きを隠しているように感じられるからです。
 情の点で、不倫する者にも同情できる、という場合はあるかもしれません。結婚という制度により、暴力的な男に束縛されているところから、解放されようとする動きの中で、他の男性に結びついていくという話を聞くと、まことにお気の毒です。
 でも、感情的にそう思うからといって、結婚という制度を否定したり、不倫を正当化したりするのがよいという理屈はありません。
 結婚は、契約だからです。
 買った商品が不良品であったという理由で、店の商品を盗んでよいという理屈はありません。売買という契約の不履行を訴えて一定の手続きを踏まえる必要があるでしょう。
 聖書の時代、自由恋愛はできなかったかもしれません。しかし、恋愛結婚は多くの旧約聖書の記事に現れています。それでも、結婚は重要な契約として扱われているようです。そして、新約の時代には、キリストの救いに与るために、一対一で結びつく象徴として、結婚が聖なるものと考えられました。
 歴史の中でときに、それが現実にも厳格に適用されたきらいはありますが、ともあれ、情で契約を曲げることはできない点だけは、忘れてはならないでしょう。



従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。
(ローマの信徒への手紙7:3,新共同訳聖書-日本聖書協会)



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