たかぱん

 耐えられない苦しみ

びっくり聖書解釈

 ルカ伝の、いわゆる放蕩息子ほどいい加減な奴はいなくて、それを許したあの父親は、限りなく赦しを与える神を表している――と言われます。そして、我が身を放蕩息子に置き換えて、神に感謝したりします。ただそこでは、例の「兄」という存在が意味深で、そこに我が身を照らし合わせることこそ主題ではないか、という捉え方もあります。
 いずれにしても、放蕩息子の父親の許しは最高級だ、という見方が基本的にありましょう。
 たとえば、さんざん浮気を繰り返しましたが、その女たちに関係してトラブルに巻き込まれ、手痛い目に遭って苦しんでいる夫がいたとします。奥さんは最初のうちはその度に助けて身を守ったりしましたが、それでも喉元過ぎれば夫はまた浮気を始めます。それがもとで、またとんでもないトラブルを起こしました。
「もういっそ、愛人たちに助けてもらったらどうなの!」
 たまらず奥さんは叫びましたが、夫は平身低頭誤り倒し、
「今度こそ自分が悪かった、この後どんな仕打ちをしてくれてもかまわないから、どうかこの場だけは助けてください」と言いました。
 また同じことを繰り返すだけだ、と奥さんは思いました。が、涙ながらにこの場を凌ぎたい夫の姿を見るにつけ、その夫の苦しみが、奥さんには耐えられなくなった……。
 もしかすると、この奥さんが許した内容そのものは、そう大きなことではないかもしれません。けれども、思いませんか。「夫の苦しみが耐えられなくなった」というのは、なんと大きな愛情であるか、と。ただ許したのではなく、そのちゃらんぽらんな相手が苦しんでいるのが、つらくてつらくて仕方がない、とは。
 旧約聖書の士師記に、そうした場面がありました。
 その後、遊女の子エフタが娘を犠牲にすることによってイスラエルは救われます。さらにエフライムという身内を裁くことによって国内を平定し、どうやらこうやらイスラエルは続きます。ただ、数十年後のサムソンが現れるときには、すでに他の神々を祀っていたといいます。性懲りもなく……。



彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになったので、
主はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった。
(士師記10:16)



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