たかぱん

  胎児と男親

びっくり聖書解釈

 3人目の子にして初めて、超音波検査(エコー)の映像を見せてもらいました。
 もちろん、写真を戴いてくることは、これまでもあったのです。けれども、上の二人とは異なる大学病院で初めて、中へどうぞと通されて、動く生の映像を見せてもらえたのでした。
 おなかに装置が当てられると、それは、「呼んだ?」とでも言わんばかりに、正面を向きました。背骨や頭骨がはっきり見えます。指が五本あるのもたしかに見えます。まだ、数pもないような状態でありながら――。
 たしかに、それは「いのち」でした。
 女性は、腹の中でその「いのち」を実感しながら育んでいきます。いみじくも「こんにちは、あかちゃん。わたしがママよ」という歌詞が、女性の歌詞ではない(作詞は永六輔氏)、と見抜かれたように、女性は、まだ見えない段階から、赤ちゃんを十分感じつつ共に生きていくのは当然です。でも、男は、だめです。こうした動く映像を目の当たりに見ることなしには、その「いのち」が生きていることさえ、感知できないのです。
 臨まない妊娠のとき、「堕ろしてくれ」などと男が言うことがありますが、この「いのち」が感じられない鈍感さのゆえ、と言って差し支えありますまい。
 そして、この骨ばかりが見える「いのち」をモニターで見守りながら、ふと問いかけが起こります。この「いのち」をつくったのは誰だろう? 父親としての自分は、何もこんな骨格を企画したわけでも設計したわけではないぞ……。



あなたは、わたしの内蔵を造り
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
(詩篇139:13/新共同訳-日本聖書協会)

Takapan
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