たかぱん

  愛と対極にあるもの

びっくり聖書解釈

 愛の反対は、憎しみ。よく、そのように言われます。分かりやすい比較ですが、ほんとうにそうでしょうか。
 神は、聖書の中でしばしば人間を2種類に分けて説明します。それが誤解を受けて、キリスト教が二元論に過ぎないと思われることがあるのですが、二つに分けるのは、理解のしやすさを考えてのことです。教育的配慮とも言えましょう。
 愛と憎しみは、同じものの表裏にあるかもしれず、そうなると、愛と憎しみは対極にあるとは考えにくくなります。愛を説く宗教はまた、憎しみ合う宗教の姿を呈することがあるかもしれないのです。
 パレスチナでの争いがなかなか終わりません。だからキリスト教はだめだ、などという悪口が、仏教系新興宗教で言われているそうです。もちろんこれはユダヤ教とイスラム教との争いを背景にしていますが、一神教は戦闘的だとの宣伝にはもってこいのようです。
 水も作物も温暖な気候も、何の苦労もなく満ち満ちている日本に住む者が、水一滴のために命を懸けて戦う心情が想像できないのは仕方ないかもしれません。わずかな耕地や住居地のために憎しみ合うこと、あるいは契約を立てるということは、そこから出てくる一つの結果です。自然条件に恵まれている日本人が非難するべき事柄ではありません。
 それより、そうした争いが対岸の火事だとして無関心でいることのほうが、よほど問題です。愛の反対は、憎しみでなく、無関心である。マザー・テレサの考えも、そこにありました。仲間内の和を重んじるあまり、仲間外についてはあまりにも無関心でいられる私たちの体質を、振り返ってはいかがでしょうか。
 電車の中で大きな声を出していられるのも、そこで平気で化粧ができるのも、他人に対する無関心のなせるわざなのです。



そこで、王は答える。『はっきり言っておく。
この最も小さい者の一人にしなかったのは、
わたしにしてくれなかったことなのである。』
(マタイによる福音書25:45/新共同訳-日本聖書協会)

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