たかぱん

  丈夫な人に医者はいらない

びっくり聖書解釈

 教会に集う人は、神を信じて幸せそうだ。あるいは、自分で幸せになって結構なことだ、などと見られることがあるかもしれません。
 外部の人がそう思うばかりではありません。教会生活を送っている人も、ほかの人はいいなあ、と思うことがあるかもしれません。信仰ある人は喜んで生き生きとしている、それに引き替え自分は……などと。
 ハレルヤ! 牧師は力ある説教をして、神の恵みを告げます。明るい顔をしていなければ、教会に行っているという証詞ができません、などというフレーズも、時にはあるでしょう。
 その度に、うつむいてしまう人もいます。
 ほかの人は清く正しい生活をしているのだ。あるいは、そうしているつもりなのだ……。
 荒んだ自分、ぼろぼろの状態の自分というものを覚えた人は、教会に来る価値などないのでしょうか。似合わないのでしょうか。
 福音書が語るイエスの姿は、どうやらこうした社会状況の中に置かれているような気がするのです。当時の宗教社会から落ちこぼれた非エリートの民衆たちに歓迎されたイエスの福音とは、何だったのでしょうか。
 まさに、ぼろぼろの魂に寄り添っていたイエスから発された言葉は、明るく元気のよい人々に向かってではありませんでした。
 ぼろぼろの人には、イエスが近づいています。



イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(マルコによる福音書2:17/新共同訳-日本聖書協会)

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