たかぱん

  鶏が鳴いている

びっくり聖書解釈

 イエスは、あなたのもとから離れぬ、死んでも従って行く、と叫ぶペトロの熱意に対して、非常に冷静に答えています。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」
 このときのイエスの表情や口調を想像してみたくなります。私は、いくらか悲しげである中にも、ペトロに対する愛情溢れる眼差しで見つめている様子を想像します。去らなければならない父親が、息子を見つめるような眼差しを、思い描いてしまいます。
 マルコのみ、鶏が2度鳴くことを入れています。他は回数には触れません。そこで、たんにこれは比喩に過ぎず、夜が明けるまでにという意味なのだ、という解釈もあります。というのは、当時ユダヤ人は鶏を飼うことは忌避していたと思われるからです。だからユダヤ人社会には、鶏は飼われていないのが建前でした。ただ、それはやはり建前に過ぎず、現実には飼われていたのだ、という理解もありますし、これもまた比喩という考えですが、ローマ兵による夜明けのラッパではなかろうか、という考えもあるといいます。
 しかし、イエスは「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」(マタイ23:37,ルカ13:34)と口にしました。鶏が現実にいたがゆえの表現ではないか、と見る向きもあります。
 ともかく夜が明けるその時までに、一度ならず二度ならず、三度までも、イエスを否定する、つまり従うの正反対の裏切りをなすのだ、という予告をするイエス。その言葉は、ただペトロに対するそのときだけのものだったのでしょうか。私は、そうとばかりは言えないように感じています。
 私たちのすぐ傍でも、鶏がもう何度鳴いているか、知れないものだと思うのです。



「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」
(マルコによる福音書14:30/新共同訳-日本聖書協会)

Takapan
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