たかぱん

 なりふりかまわず

びっくり聖書解釈

 舞台はファリサイ派の議員の家。イエスは水腫を患う人の「手を取って」癒しました。上席を選ぶ客らに、末席に座るべきだと批判しました。神の国で食事をすることが話題に出ると、おそらくイエスはその発言をした人が、自分こそその価値があると考えていることを見抜いて、盛大な宴会のたとえを話し始めました。前もって招待しておいたはずの人々は、宴会りも、自分の都合ばかりを優先させました。実のところそれらは、申命記20:5-7にある、正当な理由であったのです。律法に詳しいファリサイ派の人々が気づかないはずはありません。律法の規定を遵守して断りを入れた人々の態度に、宴の主人は憤り、町や路地に出て行き、貧しい人や体の不自由な人を連れてくるように、と僕たちに命じました。しかし、まだ席が空いているという報告に対して、小道にまで出て行って、「無理にでも」人々を連れてきてこの家をいっぱいにするのだ、と言ったというのです。
 招かれていたはずの人々は、律法を理由に自分としては正当に、神の国の宴会を断りました。神の国には、もはや町から路地、小道にまでも踏み込んで、誰彼ともなく、見境無く人を誘って連れてこいと言うのです。「無理にでも」という神の熱心さは、とびきりの無理を神ご自身がなさることをも示しています。御子をいたぶるという、とんでもない最後の切り札。神はもう、なりふりかまわず、救われる者を呼び集めると言っておられるのです。この十字架を見て、自分が呼ばれたと感じた人は、そのアセンブリーをもう受けています。神の、この狂ったような集客に応えないというのは、神が食事を共にすることがない、ということです。人間もまた、なりふりかまわず、応じなければならないのです。



主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』
(ルカによる福音書14:23-24)

Takapan
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