大震災を忘れることができない
びっくり聖書解釈
1月17日を迎えるたびに、つらい気持ちになります。1995年のこの日、神戸を中心とした地域に、恐ろしい災害が降り注ぎました。家具の下敷きになり、あるいは燃え広がる炎の中で、亡くなった人が数千人……。
忘れてはいけません。忘れようとしては、いけません。戦争を起こした過ちを語り伝えなければならないのと同じように、あの1995年兵庫県南部地震、いわゆる阪神淡路大震災を、私たちは伝えなければなりません。
たかぱんはそのとき京都にいました。震度5を経験しました。テレビが台から落ちていたら、死んでいました。あの揺れは、今もなおからだが覚えています。
募金ならできたけれど、被災地に走って行くことはできませんでした。もっと何かできたかもしれません。しばらくして後にも、神戸のそごうデパートが復興したときに、痛々しい傷口を遺した店内で、少し高価なおもちゃを購入して、神戸の経済のために応援することくらいしかできませんでした。
どうしてあの地震で死ななければならなかったのか。被災者やその家族などは、ずっと心に思っています。聖書の中でも、ヨブ記のヨブという人は、どうしてひどい目に遭わなければならないのか、と考えに考えました。
どうしてこんなことが……?
言えることは、そんな問いを出している自分自身は、まだ生きているということ。死んでも仕方がないようなばかな自分が、まだ生かされているがゆえに、そう問うことができることに、気づきます。それは、まだおまえなら、これからなんとか立ち直ると思うから生かしているのだぞ、と神さまが言いたいからそうしてくださっているような気が、してなりません。
そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、
ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
(ルカによる福音書13:2)
た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド