たかぱん

  一事が万事

びっくり聖書解釈

 出発しようとする列車のドアがまた開きました。遅れてきた女性を乗せるためでした。色はシックですがどことなく派手気味なその女性は、自分のためにドアが開いたのをさも当然のことのように、ゆっくりと乗ってきました。
 先に、すでに知り合いが――話からするとそれは妹のようでした――乗っていたようです。女性は、妹の履いている靴が自分のだ、履くな、人が履くのが嫌なのだ、と叫び、しゃがんで妹の靴を指さしていました。
 妹は、ママが履けと言ったからだと弁解しますが、女性は許しません。一つ前の席に座りながらも、いつまでも妹のことを非難し続けていました。
 ようやく治まったかと思うと、その女性、ミラーを取り出して、熱心に化粧を始めました。隣にいる男性が困惑しています。
 ふと私には、「一事が万事」という言葉が思い浮かびました。
 人間、たった一つの欠点ももってはいけない、などとは申しません。不可能です。でも、その欠点に気づこうとしない心や、気づいてもどうでもいいやと野放しにする心は、次々と崩れていく原因を形成してしまうものです。
 小さな罪をどうでもいいものとしていく風土と、小さな罪だからこそそれをなかったものにする方策を真剣に考える風土とでは、後者に分があるように感じます。いや、それぞれに良さというものはあるのでしょうが、その罪を補完するものが恥だったとするのが、日本について熟考する方々の一つの意見のようで、恥という概念が滅びつつあるとすれば、私たちはもう絶望しそうになります。
 しかし聖書では、その逆のことすら明らかにしています。
 白い湿疹が出ている者は、感染した、汚れた者となるが、その白いものが全身に及ぶときには、むしろ清いとされるのだそうです。
 ああ、私は全身罪まみれです、と告白する者は、却って清いと判定されるというのでしょうか。もはや人間である自分には、なすすべがないと手を離して。



もし、この皮膚病が皮膚に生じていて、祭司が見るかぎり、頭から足の先まで患者の全身を覆っているようならば、祭司はそれを調べ、確かに全身を覆っているならば、「患者は清い」と言い渡す。全身が白くなっていれば、その人は清いのである。
(レビ記13:12-13/新共同訳-日本聖書協会)

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