たかぱん

  生まれつき

びっくり聖書解釈

 人には、生まれつきどうにもならないことがあります。
 聖書の中には、生まれつき目が見えない人のことが記されています。イエスはこれを見えるようにしたというのです。
 生まれつきの牢獄から解放されたというこの話は、もちろん、現実に目の見えない方々の励みともなっていますが、およそすべての人の心に響きうるものをもっているのではないかと思います。
 不便を覚えるようなからだや心の状態についても、取り去れない悩みがあろうかと思います。身長なからだつきなどの悩み、血筋や家柄の悩みもあるでしょうか、私たちは、しばしば問題を、「どうせ」と、取り消すことのできない部分にぶつけたくなります。
 いくら神さまが奇蹟を起こすとしても、こればかりは仕方がないじゃないか――と。
 でも、イエスは、それに対する奇蹟も、なしえたのでした。神の業がそこに現れるというふうに。
 他方、このヨハネ9章では、自分には弱みなどないと高ぶっている者たちへの批判も、忘れませんでした。見えていたはずの者たちは実は何も大切なことが見えていないのだ、と言って。  くだらない血液型での性格づけなどを口にして、無邪気に生まれつきのことで人を差別していることにさえ気がつかないのも、それと似ているような気がします。



イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
(ヨハネによる福音書9:3/新共同訳-日本聖書協会)

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