堂々としていたのに
びっくり聖書解釈
疑いのトマスと悪口を囁かれますが、私は全く違う意見をもっています。
復活のイエスは、トマスのほかの弟子たちに現れました。この仲間たちは、戻ってきたトマスに「わたしたちは主を見た」としきりに言います。英語でも「see」は見る意味のほかに会う意味もありますから、イエスに出会ったのだ、と喜んで報告する仲間たちの姿が想像されます。
この弟子たちは、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ20:19)のであり、そこへ復活のイエスが来て真ん中に立ったという記事になっています。
トマスは、その場にいませんでした。ということは、トマスは、ユダヤ人に捕まったり迫害されたりすることを恐れることなく、閉じこもってぶるぶる震えてなどいなかった、ということになりはしないでしょうか。
トマスはヨハネの福音書の中で、それまでも、主に従い行こうと忠実に一途に思うタイプに描かれています。堂々としていたそのトマスだけが、復活の主に出会うチャンスを逸したのです。
さぞやトマスは悔しかったことでしょう。
でも、その悔しさ以上のすばらしい恵みが、次に待っていました。
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
(ヨハネによる福音書20:24/新共同訳-日本聖書協会)
た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド