たかぱん

  ペトロは踏み絵を踏んだ

びっくり聖書解釈

 遠藤周作の名作に『沈黙』があります。江戸時代の「踏み絵」を題材として、それを踏んでしまう宣教師を描いています。踏み絵を踏むかどうかで葛藤し、ついに踏んでなお神を見上げようとする主人公に対して、神は沈黙を守り続けるようだ……。
 キリシタンの時代だからこそ、それは起こった出来事なのでしょうか。
 たとえばヨハネによる福音書の中に、この踏み絵を踏んだ男の描写があります。
 ペトロです。
 血気盛んなペトロが、とかく猪突猛進的である様子は、福音書の様々な箇所から読みとることができますが、このペトロは、イエス逮捕の瞬間まで、マルコスという男の耳を切り落とすほどに大暴れします。
 しかし、イエスは逮捕されました。ペトロはとにかく何とかして裁判の様子を見に行こうと努力します。気になって仕方がないのです。ですが、イエスの弟子だと見破られると自分の命が危ないことも自覚しています。暗がりの中、夜中の裁判を見に行きました。なにせ、過越の祭りの準備の関係で、裁判は夜中にでも迅速に行われなければなりません。
 まだ自分の霊的な状態に気づくことに気づくことのないペトロは、火にあたります。寒くて仕方がないのです。心も、寒々としていました……。
「あなたはあのイエスと一緒にいましたね」
 指摘されてペトロは、「ちがう」と否定します。しかも、三度も。
 ペトロは、踏み絵を踏んだのです。
 鶏が鳴いても、他の福音書のように、イエスが振り向いたなどの記述はありません。ペトロが泣いたなどの描写もありませんく。ヨハネは、ただ鶏が鳴いたとだけ記しています。イエスがどうしたとは書いてありません。
 神は「沈黙」しているのです。
 考えてみれば、このようなペトロの状態は、一種の「引きこもり」に違いなく、神を見失って、自分の世界に閉じこもっている様子と捉えられないでしょうか。
 そうしたことは、私たちの日常にも、よくあることではありませんか。



ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
(ヨハネによる福音書18:27/新共同訳-日本聖書協会)

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