父との一体感
びっくり聖書解釈
七ヶ月の赤ちゃん。ちょこちょこ動き回りますし、好奇心いっぱいで、何でも触ってしまいます。そんなとき、私は叱って厳しい顔を見せなければなりません。あるいは、冷たい素振りをしなければならないこともあります。
赤ちゃんが、泣きました。でも、ちょっと突き放したほうがよいと思われるときがあります。
赤ちゃんは、泣きながら、やっぱり私を慕って這い上がってこようとします。叱れらても冷たくされても、すがるのは、目の前のこの父親しかありません。
父なる神を求めるというのは、こういうことなのかもしれません。「じゃあほかの神でも拝むか」ではなく、神といえばこのお方しかない、という思いです。
もちろん私は神ではありません。でも、おいたをやめてもらうために叱るつもりで冷たくしたところが、じゃあへほかの人のところに行こうっと、とそっぽを向かれたら、父親として悲しくなることでしょう。その意味では、赤ちゃんにとって私は、神のように、頼るべき唯一の相手だということになります。
もうどんなことがあっても、すがるしかない相手です。
やがて鼻汁がかぴかぴになるまでに泣いても、その鼻汁をじゅるじゅると口の周りに塗りたくった状態で、ひっくひっくからだを奮わせながら、私の膝に手を置いて、だっこしてくれとよじ登ってきます。抱き上げると、今まで泣いていたのが誰のこと、とでもいうかのように涼しい顔をして、世間を見下ろしているのです。
赤ちゃんは、自分と親との区別がまだつきません。安心して、自分は父親そのものなのだといった得意げな顔で、だっこされているわけです。
わたしと父とは一つである。
(ヨハネによる福音書10:30/新共同訳-日本聖書協会)
た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド