たかぱん

 陶工

びっくり聖書解釈

 聖書の中で幾度か、人間が、土の器にたとえられます。そもそも創世記で、人(アダム)が土(アダマ)から作られたと、ヘブライ語の洒落のような感覚も交えて説明されているわけですが、それが後のイザヤやエレミヤのような預言者になると特に、陶工との関係の中で語られることが多くなります。
 もちろん、陶工は、神のことです。
 人はこの陶工の意のままに、気に入らないものは壊されてしまう――そのように言われることもありますし、しばしばそのように私たちは神を畏れています。いえ、怖れています。
 ですが、陶工の仕事を考えてみると、違う意味に受け取れることに気がつきます。粘土をこねて、それを窯に入れて焼く……しかし、この焼き具合というのは、陶工自身には確証がありません。どのように焼けて出てくるのか、それは陶工の調整ももちろんあるのですが、時に運次第ともなります。うまく焼き上がるかどうかは、陶工にも分からないのです。
 私たちは、主を「待つ」と言います。人間だけが、まるで神を待つかのように錯覚します。ですが、陶工たる神も、待っているのではないでしょうか。どんな焼き上がりを見せるのか、どこか不安な面持ちで、窯の口が開くのを、待っているのではないでしょうか。
 私たち人間は、神に待たれている。
 そう感じたとき、見る景色が、変わってくるような気がするのです。



イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。
(エレミヤ書18:6,新共同訳聖書-日本聖書協会)



Takapan
びっくり聖書解釈にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります