用語

2018年11月27日

駐車違反のステッカーを貼られたのは初めてでしたが、そこにはいろいろ細かな文字で説明が書かれてありました。お役所の言葉というのは見事なものです。さっぱり分かりません。
 
具体的には記しませんが、そこに書かれてあることとは違う、と思いました。きっと私が、法律的な文章に慣れていないからでしょう。通知した、というふうに書かれてあるけれども、私はそんな通知は受けていない、といった低レベルな疑問から始まりました。たまらずすぐに電話した先では、そんな文句を言われても困ると言いたげな男性担当者が答えてくれました。決して好意的ではなかったものの、質問には答えてくれました。その通知とは、そのステッカーを貼ったことを通知と言うのだ、などと。ああ、そう言われるならそれはそうかもしれない。その他、異議がある場合には、というのは、車が盗まれて自分が置いたのではないような場合を言うのであって、自分がそこに停めていたのであれば、異議にはならない、などというわけです。いや「異議」というのはそんな特殊な意味があったのか、と庶民感覚とは大きく異なることに驚いた次第でした。
 
法的な用語には特別な意味が定義されています。日常使う言葉と同じではあっても、特殊な専門の定義が施されており、一般感覚でその言葉を受け取ると、とんでもないことになるかもしれず、少なくともなんて無知なんだと思われるようなことになるわけです。
 
しかし、警察なりお役所なり、その用語を適用している方からすれば、その語はそのような意味で使うのが当たり前と思うわけで、そのために、知識のない私のような者から問い合わせがくると、その都度説明をしなければならなくなるという次第なのでした。
 
もちろん、皆さまはお分かりでしょう。私が何を考えたか。
 
教会用語が、まさにそうなのです。教会の専門用語というのは確かにあります。聖餐とか頌栄とかいうと、これは教会外の人には殆ど分かるまいと知っていますし、それなりの説明を加えて対処しますが、実は日常語でありながら、あるいは一般的には別の意味で使う言葉をキリスト教的に使っていて戸惑わせるという語がたくさんあるのです。
 
「献金」はきっと政治的な響きがしています。「神」が概ね違う概念で思われているということは、少し考えればお分かりのはず。「賛美」が歌のことだとは通常思われていないし、私は「祈祷」の言葉には幣を振り回して叫んでいるようなイメージを最初もっていました。「兄弟」が異様に響くことは、教会内部の慣れた人からは想像もつきません。
 
普段は触れることがなく、お世話になりたくもない法的な用語は、いざそれと遭遇したときに、まるで違う世界を感じさせ、また意味が分からず対処に苦労するのでした。キリスト教世界から聞こえてくる専門用語もまた、よほど謙虚に好意的にそれを学ぼうという殊勝な人でなければ、意味がなじめず、異世界を感じさせるものであるのではないでしょうか。
 
だからどうすればよいか。それはマニュアル的には言えません。教会は教会として営まれている以上、その世界の言葉を使うのは当然です。ただ、福音は宣べ伝えるという命令を私たちはキリストから受けています。そのときに、教会内部の者には難なく伝わるが教会外の世界には変な響き方をする、へたをすると変な言葉を話すバルバロイのように見られている、そんなことが起こっているのかもしれません。
 
ギリシア人にはギリシア人のように。それは安易に妥協せよという意味ではないと言われます。ただ、仲間内の言葉をいい気になって使っているような態度は、そのスピリットとは違うもののように思えます。キリスト教はそのようにして、多くの現地の人々の言語に福音を翻訳することで、世界に拡がっていった信仰です。中国に聖書をもたらしたモリソン父子のように、現地の人に伝わる言葉を苦心して探したという実例を最近本で知りました。人知れぬ地に宣教師として向かった方々も、そんな気持ちなのだろうと思います。
 
同じことは、同じ言語を使う同胞の中にいる者にも、きっとできるはずです。言語の知識を少しもち、言語の違いを意識して、それでいて伝わる心をもって接していく、何よりも愛の行いをさせてもらおうと祈りつつ接することで、きっとキリストを伝えることは可能だと思いたいのです。万人には伝わらないかもしれませんが、何かが誰かに伝わるに違いない、と。



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