◆世に仕えるための覚悟 人の世で奉仕するのも、クリスチャンの仕事。 その意味で立派な輝きを見せた人もいる。その一方で、潰されていった思いも無数にあるのではないか、というのが、ここでの論点だ。 仕えていれば、いつか相手も分かってくれる。真実の思いが通じる。 こうした善意が、たしかに、通じることもある。しかし、通じないこともある。人相手にさえそうである。 日本社会という大きな雲の中で、社会の空気にそれが通じるかどうかと言うと、期待は薄い。 薄いからこそやるのだ、という思いの人もいる。薄い中で、通じる部分を見つけられる人がいる。しないよりは、したほうがいいのだ、という真面目な人もいる。どの人も私は尊敬する。頭が下がるが、それこそがなすべきことだ、とは考えていない。 日本語には、「出る杭は打たれる」ような意味の言葉がたくさんある。「長いものには巻かれろ」ともいう。原則に厳密に従おうとする精神は「杓子定規」と非難される。言葉の中に、考え方があるものだとすれば、この社会のもつ魔力は、私たちの予想以上に強い。とても、個人で立ち向かえるようなものではないのだ。 社会正義さえ、実現しない。まして、霊的な正義も、呑み込む不気味さを備えたこの風土では、しばしば無力となる。 だから諦めろ、というつもりはない。誠意を持ってやれば通じる、という保証はなく、むしろ通じなかったことのほうが遥かに多い、という事実を踏まえるように言っているのだ。ちょうど、プロ野球選手を夢見る子どもたちのほとんどが、野球選手にはなることができないように。 世に仕えることで、誠意を通じさせようとするよりは、世からははっきり距離を保ったほうが、包み溶かされないで済む可能性は、高い。もちろん、どちらを選択するかは、善し悪しではなく、その人に与えられた使命であるけれども。 |