被災地と孤立と信仰 ハリケーンのカトリーナがアメリカで大きな被害をもたらし、続いて日本でも台風14号が暴風と大雨をもたらした。 アメリカでどうしてあんなに被害が大きく、治安も乱れているのか。 日本では、自治組織というと大袈裟だが、助け合いや支え合いが生まれ、炊き出しなどの措置が始まる。阪神大震災のときにも、略奪などの報告は殆ど見られなかった。もちろん、美化しすぎることもしないつもりだが、このたびのアメリカと比較すると、違いは明らかである。 自分の身は自分で守る、という考え方の徹底は、よい面もあるが、このような非常時に、政府も何も助けないし、狼と狼との闘争のような現状となってしまう。アメリカでは、水や食糧の略奪については、政府はむしろ容認していたのだ、とも伝えられている。 それは、政府からの援助が機能していなかったからである。こうして、幾多の有名人から政権は非難を浴びることとなった。 自分の身は自分で守る。 神を信じるという原点も、それに近かったのかもしれないが、はたして、聖書は元来ユダヤ民族のアイデンティティであった。イスラエル民族は、悪しき個人主義ではなかったはずだ。 軽々しくは論じられないが、たしかに、かのアメリカの孤立した状況を、一神教のなすわざだと見られると、一般にありがちな誤解も生まれてくる可能性がある。 しかし、信仰は、孤立とはむしろ逆であるはずだ。信仰は、たとえ孤立しても堪えうる力を与えるけれども、本来共同体における一致を生むものであろう。 たとえば夫婦でも、互いに好きだという感情だけでは、続かないことがある。そのようなとき、共にいるとすれば、仕方なく経済的な理由によって、ということになる可能性すらある。 性格の不一致などという離婚理由が無難に提示されるが、拠って立つ地盤の不一致、分かりやすく言えば価値観の不一致というほうが、的を射ているのではないか。 信仰という基盤は、夫婦関係をも支えうる。 被災地においてのみ、共同体が確認できるというのも、寂しい。教会というところは、私たちを孤独から常に守る働きもなしているのだろう。 |