◆テロリストをつくる報道

 ロシアの北オセチアの学校占拠事件への悲しみと怒りは当然である。殺すことへの何のためらいもない残虐性と、生き残った子どもたちへもどれほどの肉体的・精神的苦痛が残り続けるかを考えると、もう死者を悼むというだけでなく、何をどう表現してよいか分からない。
 だが、だがである。このテロが大きく報道され、悲しみと怒りを世界に巻き起こしたとしても、だからチェチェンが悪だという色を塗って然るべきなのだろうか。チェチェンの人々に言わせれば、1994年からないし99年からの二度のロシアの攻撃でによって、10万とも20万とも言われる人々が殺されている。
 そして、それは「10万」などという数字で数えられた報道にとどまり、映像もレポートもなされない。他方、繰り返し繰り返し映像が報道される今回のオセチアの学校の姿がある。どちらが世界の人々の感情を動かすだろうか。
 子どもたちを殺めたことが許せない、とする向きもあるだろう。しかし、チェチェンの犠牲者の中に子どもがいなかったと言うのだろうか。今回の犠牲者数を遥かに上回る子どもたちがそこにいたのではないだろうか。
 もちろん、人の命を数で量るつもりはない。たんに観察者である私たちが、「知っている(映像で見ている)」か「知らない(映像で見ていない)」かで、正義とテロリストとが塗り分けられるのだろうか、ということである。
 思い返せば、アメリカは、武器輸出では圧倒的に世界一の国である。死の商人として金を得ておきながら、いざアメリカに刃を向けた少数のゲリラがいると、テロリストという名を着せて絶対悪に仕立てる。アメリカ側に、圧倒的な映像供給能力があるゆえに。  マスコミを支配する側が、主張を公開できない相手に向かって、敵だ悪魔だと罵るだけでは、争いはなくならない。しかも、その空気を煽る報道機関までが、自由主義と称する日本のような国にも存在する。
 いったい、テロリストとは何だろうか。
つぶやきの カ・ケ・ラ


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