◆論法の妥当性

 戦争をしないという立場を貫き範として先導しようという思いは、「平和一国主義」であり「殻に閉じこもった」考えだから馬鹿げているという。
 他国に軍隊を派遣するのをやめることは「テロに屈する」ことだからやめてはいけないという。
 自国の歴史の中に、他国を侵略した事実を認めることは「自虐史観」にほかならないので、そんな教科書はなくさなければならないという。
 いずれにしても、一定の立場の人々の論法の中に見られる、推論の根拠である。はたして、これらが根拠として妥当であるのかどうか。
 私にはこれらが、詐欺や洗脳のときに使う論法とずいぶん似ているように見える。
 ほかの選択肢も考える余地があるのに、論敵の思想はすべてこの結論に至ると制限するのである。必ず水はこちらに流れる、と言って好ましくない河口にいくしかないように見せる。水は地にも染みこむものであり、また蒸発する水もあるだろうが、それは考える余地を残さない。
 たとえば、自国の歴史のよくない点を指摘することはすべて自虐だという言い方で終わるのだが、こういう見方がさも正当なように見えるとすれば、キリスト教の「罪」という思想が、この国に迎え入れられるはずもないように悲しく思う。
 また、Aの考えには問題がある。従って、Bしかない。こうもってくる。ところがBのほうにさらなる問題がある可能性は、決して口にしない。こういう、論理にもならない理屈は、自分を悪く言われないようにするために、世の中のあちこちで乱れ飛ぶ言い訳とよく似ている。
つぶやきの カ・ケ・ラ


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